仏事の意味

meaning

私の宗教
私の宗旨(宗名)は浄土真宗、略して真宗。正式名称は浄土真宗本願寺派(西本願寺)俗にお西とも。
教えを開かれた方(宗祖)
親鸞聖人1173年5月21日京都でご誕生、1224年浄土真宗を開かれ、1263年1月16日90歳(御往生)
拝む仏さま(本尊)
阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)はかりない命(無量寿)ときわみない光(無量光)の阿弥陀仏に一心に南無(帰命)する者を必ず救う!という意味。
教義
阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩みこの世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
宗風
親鸞聖人の教えに導かれて阿弥陀如来のみ心を開き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷などによることなく、御恩報謝の生活を送る。
仏壇
仏壇は死者のためのものでもなく、またお位牌を置く場所でもない。私をお救いくださる如来さまを礼拝するために安置するものであり、家庭生活の中心となるものである。買う時期はいつでもよい。日からや方角、吉凶など一切気にしない。購入前にお寺の住職さんに相談すると間違いがないです。
仏壇の荘厳
仏壇中央にはご本尊(阿弥陀如来の御絵像、木像または南無阿弥陀仏の六字名号)向かって右側に親鸞聖人のお姿(あるいは帰命尽十方無碍光如来の十字名号)左側に蓮如上人のお姿(あるいは南無不可思議光如来の九字名号)を安置する。このほかの他宗の絵像やお札の類をおいてはいけない。ご本尊をはじめて安置したり新たに仏壇をもとめたりした場合には『入仏式』つまり『入仏慶讃法要』(にゅうぶつきょうさんほうよう)をつとめる。真宗ではたましい入れなどとはいわない。
葬儀
葬儀は人生最後の大切な別離の儀式であるから厳粛につとめる。浄土真宗の葬儀は亡き人に対する追善回向の仏事や単なる告別の式ではない。遺族、知友があい集い亡き人をしのび人生無常のことわりに目覚め、仏縁を深める報謝の仏事。浄土に往生させずにはおかぬ如来の大悲を仰いで、心から念仏する。
- 人が亡くなった時
仏壇に灯明をあげ、香をたく。花は樒か青木のものと取りかえる。遺体をととのえ顔を白い布で覆う。釈尊の入滅にならって頭を北にするならわしがあるが、家屋のつごうで方角は決してこだわることはない。遺体は仏壇の正面をさけて安置する。関係者に知らせると共にお寺に連絡し、葬儀の日時などをうちあわせる。事前に住職さんとお話をしとく事が大切です。
- 枕経
『枕経』といっても遺体に対して読経するものではない。正しくは『臨終勤行』といって、人生の終わりに臨(のぞ)んで永年お育てにあずかった御本尊に対するお礼の勤行である。遺体の前にはローソク、お花、供物など一切の荘厳(おかざり)はしない。荘厳をする場合は御本尊を安置する。浄土真宗では、いかなる場合も勤行は御本尊に向かって行う。
- 迷信にとらわれない
真宗門徒は葬儀にまつわりがちな迷信やまじない(例えば日の吉凶、逆さびょうぶ、魔除け、守り刀、旅装束や六道銭、茶碗を割る、塩をまく、一本箸をさしたご飯、満中陰=四十九日=が三月(みつき)にわたってはいけない)にとらわれてはならない。
法事
浄土真宗の法事は死者への追善供養ではない。命日を縁として亡き人を偲び、この私が『いかに罪深く障り多くとも、我をたのめ助くる』との仏の呼び声に目覚め、此の世に居るうちから必ず救われるにまちがいない身の上にならせていただく、大切な門法の機会である。他人ごとではなく我が身のためであるから怠らずつとめよう。
中陰の法
亡くなった日(命日)から数えて四十九日間を『中陰』といい、その間、七日目ごとに仏事をつとめる。四十九日目を満中陰という。四十九日までの七日ごとを一節として七回繰り返すこの葬儀儀礼は、十王経や十三仏事などのいわれから日本社会に定着したものといわれています。満中陰までの四十九日間に残された遺族は、七日ごとに追善の法要をつとめて故人の成仏を祈るという習俗がありますが、浄土真宗では阿弥陀如来のご本願のおすくいにより命終と同時に浄土に往生するという教えですから、追善や追福の供養ということではなく、故人の遺徳をしのび、人生の意義について考える良き仏縁として、深く念仏の教えに耳を傾け、仏法を味わうように心がけます。
墓は死者を埋葬した目じるしとして大切に扱ってきた。墓参りについては、それを縁として如来さまの前に手を合わせ、自身が教えにあうことがな何よりも大切である。
- きざむ文字は
墓の正面には『南無阿弥陀仏』のお名号を入れる。名号以外の文字の場合は墓前の勤行の際、御本尊をお供してつとめるのが原則。墓を作る時期や墓相など、墓にまつわる迷信などにこだわらない。真実の教えを聞き、心の目を開くことが大切である。水をかけたりなどはしない。
納骨・分骨
納骨は土地の慣習によっても異なるが、満中陰(四十九日)までには納めるのが普通。お骨の一部を分骨して(のど仏)親鸞聖人のご廟である大谷本廟(京都清水寺の下)に納めることもできる。
念珠
念珠は仏様を礼拝するときに使う大切な法具。元々は数をかぞえるためのソロバンみたいな物だった。お釈迦様の時代、仏教教団にいた僧侶の人数を勘定したという説。『念珠なしに仏さまに参るのは仏さまを手づかみするようなもの』蓮如上人僧侶の場合布袍、輪袈裟の時は一連、五条袈裟などを付けた装束の時は二連を持ちます。本願寺では男性にはヒモふさ、女性には切りふさをすすめています。
仏壇にお茶や水を供えないわけ
『お浄土には七宝の池があり、八功徳水(はっくどくすい)が満々とたたえられている。また、食事をしたいと思えば百味の飲食(おんじき)が意のままに眼前にあらわれる』と浄土三部経にある。このような仏の世界にうまれた方たちにお茶や水、かげ膳などをお供えする必要は全くない。
永代経とは
『永代経読経』のこと。見仏門法(仏を拝み、教えを聞く)の道場であるお寺がいつまでも続いて末長くお経が読まれ、み教えを聞く事ができて仏法が子々孫々に伝わるようにとの思いで寄せていただくのが永代経懇志。それにちなんで、懇志上納者を特に招待して開かれる法座が永代経法要。永代経懇志は『お寺を護持しいつまでもお念仏の道場としてみ教えが伝わっていくように』との願いが込められています。故人(先祖)のおかげでみ教えに遇う事ができた、そのご縁をいただけたお寺を大切にしたいまた私たちの子や孫の代々まで永きにわたって同じようにお念仏のご縁が続いていくようにしたいという気持ちもあります。
お盆とは(盂欄盆会)
『お盆』は七月十三日が盆の入りで『迎え火』。十五日が『盆』。十六日が『送り火』です。またお盆はもともと旧暦の七月十五日であったことから、新暦にあてはめて八月十五日をお盆(盂蘭盆)となっております。盂蘭盆というのは、釈迦の弟子目蓮(もくれん)が釈迦の教えに従って、七月十五日に亡くなった母親の供養を行ったところ、餓鬼道に落ちて苦しんでいた母親を救う事ができたという仏教の故事からきています。『盆』というのは供養に用いた『盆』からこの呼び名がきています。神仏習合の行事でしたがだんだんと仏教色が強くなり、現在では仏教行事として定着しています。
お彼岸(彼岸会)
『彼岸』とは仏教用語で彼の岸(さとりの世界)すなわち極楽浄土、ちなみに彼岸の対語は『此岸(しがん)』此の岸、われわれの世界すなわち娑婆の世界の事です。なぜ春分、秋分の日を中心にお彼岸とされるかというと、多くの仏教では極楽浄土は西方十万億土の彼方にあると考えられています。従って太陽が真西に沈むこの日は極楽浄土の方角がはっきりわかるので、彼岸の期間には法要が盛んに営まれていた。しかし私たちの教えでは煩悩にさえぎられて自分の力で修行して善を積むことはできない、阿弥陀さまのおおきな慈悲(お念仏のみ教え)によってのみ覚りを開かせていただく。彼岸を阿弥陀さまのお徳を讃えみ教えに遇う大切なご縁としてお勤めをしています。『彼岸』は仏教行事としてすっかり定着したますが、実は日本だけの習慣なのです。
迷信
物忌(ものい)み(日がらや方角、さわり、たたりなどを気にする迷信)をしないのが浄土真宗。親鸞聖人の言葉に『念仏者はさわりのない道を歩ませていただくのであり、信心の行者には天の神も地の神もひれ伏して敬われる。悪魔や外道も妨げることはできない』(歎異抄)とある。凡夫を目あてに救いたもう如来のお慈悲の中に「今日も幸せ、明日も幸せ」と生きぬかせていただくのが念仏生活である。
他力本願
阿弥陀如来のお独りばたらきで、つくらず飾らずこのまんまで凡夫が仏にならせていただく『浄土真宗』のことである。蓮如上人の御文章にも真宗をあらわす言葉として、しばしば用いられている。親鸞聖人のお言葉に「他力というは如来の本願力なり」とある。
倶会一処
浄土三部経の一つ『仏説阿弥陀経』に「諸上善人倶会一処』(しょじょうぜんにんくえいっしょ)とある。仏のおてもとで仕上がった凡夫の救われる念仏の道は一本道で別の道はないのであるから、お念仏によってお浄土に生まれるものは、此の世で別れてもまた、同じお浄土で倶(とも)に会うことができる、という意味の言葉。
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